ツーリズム論

人類大移動とホモモビリタス

私は、なぜ旅をするのか―
この問いは、いつも澱のように私のなかに沈んでいる。
放浪(vagrancy)・漂泊への不可解な衝動、一所にとどまる息苦しさ、空間の彼方への渇望。
その情動の滴りは次第に躰を満たし、臨界をむかえる。そして私は旅へ出る。

経験的に形成された性格というだけでは説明のつかないこの「遊動」への心理は、私たちの遺伝子の呼び声ではないのか-。
近年の人類学の成果は、そこにひとつの回答を与えている。

私たちの直接の先祖である人類=ホモサピエンスは、約20万年前アフリカに生まれた。その人類がいつアフリカから出たか(アウトオブアフリカ)、それが1回なのか数回なのかは諸説あるが、その説の最も早い時期で12~3万年前、爆発的に世界に拡散するのが5~6万年前という幅がある。
ミトコンドリアDNAの解析によれば、彼らはいくつかのハプログループを派生させながら、ヨーロッパやアジア、さらにオーストラリア、アメリカ大陸へと急速に拡散していった。日本列島で最古の旧石器遺跡は約4万年前とされるから、最速1~2万年のスピードで日本列島にまでやってきたことになる。またアメリカ大陸に到達した人類は、わずか1000年程度で最南端に到達した。数百万年単位の原人や旧人の拡散に比べると、このグレートジャーニーと呼ばれる人類拡散のスピードは目覚ましいものだった。
なぜこの大移動は起きたのだろうか。

人類の移動誌研究会を主宰した人類学者・印東道子の編集による『人類大移動』(朝日選書)で、佐々木史郎はシベリアへの拡散を説明する三つのモデルについて触れていている。その三つのモデルとは、下記である。
・引き寄せモデル(pull model)
 魅力的な環境や資源に引き寄せられるように移動する
・押し出しモデル(push model)
 気候変動や人口圧、集団間の対立などの問題が生じて、その結果押し出されるように移動する。(佐々木はシベリアへの拡散を押し出しモデルで説明するのは難しいとする)
・拡散モデル
 食糧資源とより良い居住環境を求めて、周期的移動を繰り返しているうちにシベリアに踏み込んでいた。
前二者のモデルは、フィッツヒューによる海洋適用の二つのモデルを援用したものである。

このモデルは確かに説得力をもつが、そのような下部構造だけが人類大移動を成立させたわけではないことは、言うまでもない。
この5万年前の爆発的拡散について、スタンフォード大学リチャード・クラインは、そこに脳神経内の遺伝的変異による飛躍があったという有名な説を唱えた。最近は数々の批判に晒され分が悪いようだが、少なくとも海部陽介が『人類がたどってきた道』(NHKブックス)に書いているように、ホモサピエンスが拡散当初すでに、「抽象的思考」「発見・発明能力」「優れた予見・計画能力」「シンボルをもちいて知識伝達する能力」という現代的思考能力を有し、この現代的思考の発達が大移動を成立させたということは、多くの研究者が認めるところとなっている。
また印東は南太平洋への人類拡散について、ミクロネシアやポリネシアの社会では最初の移住者を始祖とし、その系譜を代々語り継いで敬うという特徴が、モチベーションの一要素となった事例を紹介している。この事例ひとつとっても、現代人と同様に、社会的思考の基層をなす情動や心理メカニズムが経済活動と相応し、移動へのモチベーションとなったことは、十分に考えられる。

「なぜそんな危険かもしれない所へ行くの?」
「そこに何があるか知りたいんだ」
という会話が交わされたどうかは分からないが、集団のなかの好奇心に満ちた、勇気ある存在が、未知の土地へ率先して出て行ったことは想像できる。
ある者は二度と戻らず、ある者はフロンティアへ集団を率い、ある者は宝物を手に<まれびと>として村々を周遊することになったかもしれない。いずれにせよ私たちの先祖の「生命の声」は、彼らに旅せよと命じたのだ。
私たちの内側から沸き上がる未知への好奇心、非日常を体験する喜び、ツーリズムに魅力を感じる心理、それらは大移動の果てに人類が獲得した特性ではないのか。

つまり人類大移動を見ていくと、移動はホモサピエンスの「文化」であり、現在の私たちを含めた人類は、ホモモビリタス(移動するもの)と呼ぶにふさわしい存在なのではないか、と思える。
そして人類がホモモビリタスである以上、人類滅亡のその日まで、ツーリズムが廃れることはないのである。(森影 依)

■参考サイト
人類の移動誌
http://idoushi.jp
■参考文献
『人類大移動』印東道子編/朝日選書/2012
『人類がたどってきた道』海部陽介/NHKブックス/2005
『人類の進化大図鑑』アリスロバーツ編著/馬場悠男監修/河出書房新社/2012
『日本人になった祖先たち』篠田謙一著/NHKブックス/2007
『民族移動と文化編集』大貫良夫監修/NTT出版/1993
『巡礼の構図』/NTT出版/1991